”私は子供のころから、時々そんな風景に包まれる。
それはいつも、ほんの5分。今日、入り江を見た。
人には、別に、言わない。”
あまり他人には理解されないわたしの趣味のひとつに、“散歩”がある。自宅の近所を回ることもあるが、主には気が向いたときに電車に乗って知らない町まで出かけていき、気の向くままに辺りを散策して回る、というものだ。
散歩をするときは目的地を決めてはいけない。心と足の向くままに、ただ歩く。散歩の最大の魅力とは、その偶然性と非日常性にあるのだ。
目的地を決めず気ままに歩くことで、思ってもみないものたちに出会うことが出来る。そこには慣れ親しんだ日常から少しだけ離れた、微かな不思議がわたしたちを待っている。
ふと気になった曲がり角を折れしばらく進むと、誰からも忘れられたような廃墟がある。奥まった路地を行けば鬱蒼と茂る森のような御社に行きあう。すぐそばにはちょっと良い雰囲気の喫茶店を発見する。
そんな風に偶然に身を任せるからこそ、そこにある風景はわたしにとってよりかけがえの無いものとなるのだ。
そんな散歩とよく似た魅力をもつ漫画が、芦奈野ひとしのコトノバドライブだ。
芦奈野ひとしといえば四季賞を受賞し、彼のデビュー作でもある『ヨコハマ買い出し紀行』や『カブのイサキ』がおなじみであるが、今作もまた著者の魅力を如何なく発揮した、独特な空気感をもつ作品となっている。
今作は、主人公である少女“すーちゃん”が日常の中でふと出会った非日常の風景を描写した作品である。
一面が霧に包まれた夜、旧道の先にある古びた定食屋、トンネルの隙間など、各話一つずつすーちゃんが経験する不思議は、そのどれもが見慣れた風景のすぐそばにひっそりと佇むものばかりである。
それはまるで白昼夢でも見るかのように、ふとした瞬間にやってきて、そしてまた唐突に終わる。5分間だけのショートトリップは、あくまでそれがひと時の夢。非日常が紛れも無く日常に紛れ込んだ異物であることの証明であろう。そしてそれらは異物であるが故に、多分にノスタルジーを含む。
ラフ画のような素朴で飾り気の無い絵柄は作者の特徴でもあるが、それらが作品の空気感を作っている。簡素なコマの流れや時折差し挟まれるモノローグも相まって、作中に緩やかに流れる時間を表現しているのだ。そのようなある意味で雰囲気重視の構成は受け手を選ぶかもしれないが、ひとによっては何よりも気に入るものでもある。
しかしこの作品は、もちろんただの雰囲気漫画ではない。すーちゃんが体感する不思議たちの中には、どこか不気味な話も多い。単純に不思議な情景を描いただけのものではなく、その裏に何か伏線があることを示唆させるのだ。
この作者ならば恐らく一筋縄ではいかない何らかの捻りを入れてくるのであろうが、それらが今後どのように明かされていくのか、次巻以降が実に楽しみである。
都会の喧騒を離れ、少しだけ非日常に旅立ってみて欲しい。そこには日常に暮らしていては見ることの出来ない癒しと驚きが待っているはずだ。
今作は変化の無い日常に飽いている現代人にこそ、心からお勧めしたい作品の一つである。