女子かう生(1) (アクションコミックス)

現代の鳥獣戯画/女子かう生 若井ケン

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先日フランスで、カンヌ国際映画祭が行われた。
日本からの出席者も多く連日ニュースになるほどで、皆さんも目にする機会も多かったかと思う。
その中でも、海街diaryがコンペティション部門に正式出品され、大きな話題となったようである。原作は言わずと知れた吉田秋生の漫画。今回の話題に合わせて、原作コミックスもにわかに注目を集めているようで、この流れで漫画界にも盛り上がりが波及することを願っている。

その流れで、最近、映画の歴史について調べる機会があった。

軽く調べただけなので間違っていたら申し訳ないのだが、映画というものの始まりは、エジソンの手によるものだとも、リュミエール兄弟によるものだとも言われている。

もちろん初期の映画はモノクロ・サイレントの映画のみで、世界で初めてトーキー映画が公開されたのは1927年。またカラー映画が誕生したのは1935年のことであった。

ところで映画の仕組みといえば、皆さんご存知のこととは思う。少しずつ位置の違う静止画像を、滑らかに連続して映し出すことで、擬似的に動きを作り出しているのだ。
こうした映画の仕組みは、パラパラ漫画に例えられることも多い。授業中、ノートの隅にパラパラ漫画を描いて遊んだことのある方もいるだろう。そのパラパラ漫画の1枚1枚をより大量に、そして精緻にしたものが映画なのである。

このように考えるならば、映画と漫画は本質的に同じものなのだといえる。

一方で、それでは漫画の歴史はどうだったかといえば、日本で初めての漫画はかの有名な鳥獣戯画だといわれている。その成立は12~13世紀、なんと平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのことである。

そしてそれ以後浮世絵などに受け継がれていく漫画文化だが、しかし、コマで場面を割りセリフを吹きだしの形で描くといった、現代的な漫画の技法が確立されるには手塚治虫の時代まで待たなくてはならない。
このように、実に長い時間をかけて、少しずつ熟成されていった漫画文化のことを思うと、途方もない気持ちになる。今わたしたちが気軽に漫画を読めるのも、そういった先人達の積み重ねた文化があってのことなのだ。

若井ケンの漫画、『女子かう生』はそんな漫画文化の歴史を思い起こさせる漫画である。

『女子かう生』はそのタイトルの通り、仲良し女子高生3人組の何気ない日常を綴った、ゆるいギャグ漫画である。
日常系らしく、そこにはストーリーらしいストーリーも無い。どこにでもありそうな高校生活のなかで、ただただ女子高生達の可愛さを楽しむ、という、いってしまえば最近ありがちな日常系漫画だろう。

だが今作の、ひときわ異彩を放つ特色は、その日常の見せ方にある。それはなんと初期の映画の如く、サイレントであること。つまりこの漫画には、セリフの類が一切無いのだ。
もちろん擬音などの書き文字はあるのだが、それ以外の文字情報は殆ど無いと言っても良い。少なくとも吹きだしの形でセリフが書かれていることは無い。

そうした特殊な技法によって描かれているためであろうか、画面の構図や見せ方にはずいぶんこだわっているようである。あえて分かりやすくシンボリックなキャラクタやコミカルな動作を使っているのは、セリフが無くても物語が伝わるためであろう。また、画面内に吹きだしのスペースをとらなくてよい分、全体的に人物の絵を前面に押し出したつくりとなっているのだ。

『女子かう生』を読んでつい考えさせられてしまうのは、この漫画のなかに描かれているのは”記号化された萌え”だということだ。セリフも無い、登場人物たちの背景説明もロクにない、それなのにストーリーが読者に伝わるのは、ひとえにテンプレート化された設定をそのまま使っているからだろう。

明るく天然で破天荒な主人公に、眼鏡の委員長タイプ、そして小動物系のおっとりとしたドジっ子。特別なことは何も起こらない、どこかで見覚えのある、あるあるネタたち……。

この作者は恐らく、あえてこういったテンプレートをやっているのだろうと思う。だからこそ、サイレントという斬新な表現手法がより際立つのだ。

そういった意味で言えばこの漫画は、大げさな言い方をするならば、現代の世に溢れる粗製濫造された萌え漫画市場に対する一つのアンチテーゼなのかもしれないと、そんなことすら思うのだ。

鳥獣戯画は成立当時の世相を反映し、動物や人物を戯画的に面白おかしく描写したものだといわれている。それに対応した言い方をするならば、『女子かう生』はまさしく現代版鳥獣戯画なのだ。

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人が物語を読むのは、人生が一度しかないことへの反逆だ。 そんな言葉を言い訳にして、積み本が増えていく毎日。 Twitter:pooohlzwg