テキサス

風に身を任せるかのごとく / 榎屋克優 テキサスレディオギャング

なあにあいつが味わった痛みに比べれば、
俺達のこれから味わう痛みなんて、屁みたいなもんさ。

──地獄で会おうぜ。

とある落語家の方が言っていたのだが、ラジオは風のようなもの、らしい。
(もちろん無風の時もあるだろうが)風はいつでも吹いていて、何もなければ特に意識することもない。
たがふとした瞬間に突風が吹いてきたり、あるいは心地良い風が頬を撫でる瞬間があったりする。そんな時、ひとはほんの少しだけ風に身を任せてみる。

ラジオもそれと同じものだと彼は言う。文字通りBGMとして、普段は聞き流すだけのものだ。けれど同じように、ふとした瞬間に好きな曲が流れたり、気になる話題があったりしたときに、少しだけ耳を傾けてみる。少しだけ、意識を向けてみる。
そんな風にして、ラジオは私たちのそばに、ひっそりと佇むような存在なのだと。

かく言うわたしも、幼いころからラジオと共に育ってきた。オールナイトニッポンやJUNK、深夜の馬鹿力など、いわゆる深夜ラジオを聴きながら、ベッドの
中で笑い転げるのが日常だった。
わたしは今でもひとの話し声が聞こえないと熟睡出来ない体質なのだが、それは間違いなくその頃の影響だろう。

あるいは自分でもラジオを発信することに憧れ、インターネットラジオを配信していた時期もあった。それくらいわたしにとってラジオは身近なものなのだ。

ラジオは他のどんなメディアよりも、簡素で素朴なものである。ラジオを楽しむためには、聴覚だけがあれば良い。
感覚を減らせば自ずと、そこにはそれだけ想像の余地が増える。目を閉じラジオDJの声に耳を傾ける、そんなすぐそばに誰かがいて自分に語りかけてくる感覚は、他のどんなメディアにもない。
聴覚を研ぎ澄ませて心の中に浮かんだ風景。自ら想像し思い描いた理想の情景に勝るものは、きっとこの地球上のどこにも無い。

榎屋克優のテキサスレディオギャングはそんなラジオの、その中でもラジオドラマをテーマとした漫画である。

本作はいじめられっ子の主人公たちが、いじめによって殺された仲間の仇を討とうとする、そんなストーリーだ。
そしてその方法とは”ラジオドラマを使って”である。一体どうやって? と思ったあなたはきっと既に物語に引き込まれかけている。

その方法の意外性もさることながら、この漫画の最も素晴らしい点は、その構成の妙にある。
いじめられっ子がいじめっ子を打倒する、いわゆる下剋上。葛藤や苦難、挫折やそこからの再起。そしてラストシーンの爽やかさ。そんな青春作品に欠かせないエッセンスが、本作には全て詰め込まれているのだ。
それはまさしく王道的。そして王道は王道であるゆえに素晴らしい。

わたしはこの漫画を読みながら、そのまま映画の絵コンテに使えそうなお話であると、そんなことを思っていた。はっきりとした起承転結を通じ、ひとつひとつ問題を解決しながら少しずつ物語を進めていく様や、伏線の貼り方などはまるでラジオドラマを聴いているかのようである。

ラジオドラマにはオチをあえてぼかしているものが多いと、個人的に感じる。はっきりとした結果を描かずに、その後の彼らについてはご想像にお任せします、といったように。それは物語のなかに、より想像の余地を残し、聴取者に結末を投げかける意図があるのではないかと、わたしは思う。

この漫画も同様に、そのぼかし方が実に秀逸だ。特にラストシーンの演出は鳥肌が立つほど。
もちろんちゃんと予想がつくようには描かれているが、必要なところはきっちりと描写しつつも、そうでないところは惜しみなく省略してしまう潔さがある。

そんな風にして、想像の力によって自分自身の中に生まれる物語、それがテキサスレディオギャングなのだ。

もしあなたが今までにラジオドラマを聴いたことがないのであれば、是非一度この漫画を読んでみて欲しい。そうして自分の中に物語を作り上げる経験を一度体感してみて欲しいと、わたしは心から願う。

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人が物語を読むのは、人生が一度しかないことへの反逆だ。 そんな言葉を言い訳にして、積み本が増えていく毎日。 Twitter:pooohlzwg