その服を初めて着たとき、
あたしは一生お姫様でいられると思った。
好きなことだけをして生きていけたら、これほど幸せなことはない。
今年最も話題となった映画と言えば間違いなくアナと雪の女王であろう。
わたしは映画自体を観ていないので内容については何も知らないが、「ありのままに」と歌い上げる映画のテーマ曲は、当時至る所で耳にしたものだった。
ありのままに。自分に嘘をつかない。自分を信じて。
それはいかにも耳障りがよく、そして誰もが抱く理想でもある。
しかしわたしたちが社会生活を送る生き物である以上、隠さなければいけない自分というものは、おそらく誰にでも存在する。
その中でも最たるものが、いわゆるオタク趣味と呼ばれるものだろう。
最近ではやや一般的になってきた感はあるが、それでもまだまだ風当たりが強いことに変わりはない。
佐久間結衣のコンプレックスエイジを読んだ。そして、この作品について書かなければいけないと思った。それはわたしにとって、まさしく心を揺さぶられるような体験だったからだ。
当作品は以前第63回ちばてつや賞に入選し、ネット上で大きな話題をさらった同名読み切りの連載版である。
連載にあたって、ゴスロリ趣味の女性からコスプレ趣味の女性へと主人公が変更され、物語自体もまったくの別物となっている。
しかしどれだけ設定が変わろうとも、作者の描きたかったものはきっと変わっていない。
かつて洞窟で狩猟生活を送っていた原始人にとって、服とは外傷から身を守り、暑さ寒さを和らげる鎧であった。
だが社会的生活を送るわたしたちにとって、服というものはもはや防寒具としてのものだけではない。
作中に「コスプレは着るものではなくまとうもの」というセリフが出てくる。
わたしは、それはなにもコスプレだけに限った話ではないと思う。
服とは、自分自身を表象し、趣味嗜好を語るタグである。
そしてそれは逆説的に、他人に紛れるような服を着れば、本当の自分自身を世間から隠す”文化的な鎧”にもなりえる。
読切版、連載版どちらの主人公も、自らの趣味を周りに隠しながら生きている。
そうして社会人として普通に働きながら、休日には自らの趣味に没頭するのだ。
間違いなく彼女たちにとって、“ありのままの”、“本当の自分”とは、そちら側なのだろう。
そんな風に自分を隠しながら生きる息苦しさは、オタク趣味をもつひとであれば容易に想像できるだろう。
ひとは誰しも理想に近づきたいと思い、そのために努力をする。
それは例えば「小さな女の子のように可愛らしくありたい」であったり、「いつまでもお姫様でいたい」であったりする。彼女たちにとって服とは、そんな理想を実現させてくれる武器なのだろう。
似たような趣味をもち、似たような服装をしているわたしとって、彼女たちの生き方はまさしく理想なのだと感じる。
そしてだからこそ、容易く理想を裏切る、現実というものの存在についても痛いほどによくわかってしまうのだ。
作中ではそれは年齢であったり、自分よりもより理想を体現する他者との出会いであった。
そうして、ひとは理想と現実のギャップに苦悩する。理想に裏切られた先に待つのは、逃げようのない絶望だ。
それまで自分を形作ってきたものに裏切られる。アイデンティティの崩壊が訪れる。
この漫画が多くの人の心を打つのは、そうした悲哀を、決して誤魔化すことなく真摯に描写しているからなのだろう。
以前読み切り版を読んだときの、あの衝撃が未だに忘れられない。
「たとえ好きなものに嫌われても……」
ラストシーンで語られる主人公の言葉は新たな一歩を踏み出す決意である。だがその言葉が絶望や諦めの先に為されたものだという事実が、深くわたしの心を抉っていったのだ。
途中で何度も読むのを辞めようとさえ思うほどの、救い様の無い現実がそこにある。
幸いにしてわたしはまだ好きなものに嫌われてはいない。だがいつかその日が来たときのことを思うと、たまらなく恐ろしくなるのだ。