先日友人がtwitterにて、オタク暦15年目に突入したというような話をしていた。そうして考えてみると、(15年には少し届かないが)わたしもオタク文化に触れるようになってから随分久しいということに気がついた。
わたしが初めて意識的にオタク文化に足を踏み入れたのは、PCゲーム『Kanon』(正確にはそのコミカライズを読んだこと)がキッカケだった。当時はミレニアムを少し過ぎた頃、わたしはまだ中学生だった。
限りある小遣いをやりくりして、少しでもたくさんの漫画を買おうと苦心したこと、友人に借りた漫画が面白くて、今では彼以上にわたしの方がその作品のファンになってしまったこと。
こうしてその頃のことを懐かしんでいると、色々な記憶が次々に思い出されてくる。
それと同時に、思い出したくないような痛々しい出来事まで心に浮かんでしまうのは困りものではあるが。
『中二病』という言葉がある。
もはや一般語といえるほどに有名になった(実際wikipediaにも載っている)言葉なので、ご存知の方も多いだろうが、中二病とは、アイデンティティが発達しはじめる中学二年生頃、思春期の若者にみられる背伸びしがちな言動のことで、肥大した自意識と承認欲求に、未熟さゆえの視野の狭さが混ざることで引き起こされるものだ。
周りのひとたちを平凡な存在だと心の中で見下し、自己と他者を明確に区別しようとし始める。そして、自分は特別な存在なのだと思い込み、あるいは特別な存在になりたがる。
その結果として、周りからすれば奇異な言動をとってしまう。そんな状態を自虐的に揶揄した言葉が中二病である。
ある程度の年齢を重ねていれば恐らくは誰にでも、苦い思い出というものはあるのだろうと思う。ひとによっては眠れぬ夜中に突然それを思い出して、布団の中で身もだえした経験があるかもしれない。
それらは余りにも未熟で愚かで真っ直ぐな青春の記憶であり、それこそが中二病なのだ。
辻村深月の『オーダーメイド殺人クラブ』はそんな中二病のただなかにある、思春期の心を描いた青春小説である。
辻村深月と言えば映画化もされた『ツナグ』や『冷たい校舎の時は止まる』など、数々の名作を生み出してきた作家だ。辻村深月といえば思春期の揺れ動く心情を繊細に描いた作風で有名であり、今作のテーマはまさに作者の真骨頂といえる。
今作の主人公はリア充グループに所属しながらも内心では”死や猟奇的なもの”に心惹かれてしまう少女・アン。そして、「昆虫系」と呼ばれスクールカーストの最下層に位置する男子・徳川。
今作は、アンが徳川に”自分自身の殺害”を依頼するといった物語だ。
ふたりの手で作り上げられ徐々に具体化していく「事件」と、平行して起こる日常の些細な事件や悩み。そんな中学生の体験を、等身大の中学生の心情を通じて描いたものが、今作である。
印象的なのは徳川に殺人を依頼する際の、アンの心理描写である。
アンは同級生の友人が、平凡な一般人のくせに特別ぶろうとしていることを嫌悪し、厳しく非難する。
夢見ていないふり。特別だと思っていないふりをしなければならないほど、自分を疑いなく特別な存在だと思えるのは、何故なのか。許せなかった。
そんな彼女たちと同じになんかなりたくないと、アンは特別な存在になることを決意するのだ。
そうして、ニュースに溢れかえる少年犯罪の登場人物、単なる『少年Aとその被害者』に終わってしまわぬよう、ふたりは唯一無二の特別な事件を作り上げようとするのだ。
特別ということに憧れ、自分は特別なのだと思い込むメンタリティは、まさしく中二病に他ならない。
今作の特筆すべき点は、若者の未熟な精神を痛々しいほど誠実に描いていることだろう。
中学生であるアンたちの世界では、日々様々な事件が起こる。
クラス内のカースト争いや、恋愛でのいざこざ。親や友人との喧嘩。
それらはどこにでもあるようなありふれた出来事でありながら、登場人物たちの目には紛れもない大事件として写る。
学校という区切られた世界がこの世の全てなのだと思い込んでしまうような視野の狭さや、他人を意識的に見下してしまう傲慢さは、誰しも経験があることだと思う。
今作には、丁寧な心理描写によって、同じように些細な出来事に一喜一憂していた自らの幼い頃を思い出させてしまうような、真に迫る表現力がある。
痛々しくも懐かしい。目を背けたくなるのに思わずページを捲ってしまう。そんなアンビバレンスな魅力が今作にはあるのだ。
そうして読み進めていった先に彼女たちが作り上げた理想の事件が、どんなものだったのか。それは是非、あなた自身の目で確かめてみて欲しい(辻村作品を読んだことがある方ならある程度の想像はつくかもしれないが)。
思春期のその時期にしか成立し得ない、危ういバランスの上でだけ成り立つ結末が、きっとそこにはある。
だからこの小説で描かれる悲劇は、この物語を読み終えたとき、彼女たちの心の中以外、もうどこにも残っていない。それは一瞬の煌きのように少女たちを通り過ぎ、そして何事も無かったかのように消えてしまうのだ。
そうしてそれは、青春と呼ぶに相応しいとわたしは思う。
傍から見ればあまりにもささやかで愚かしい。けれど当人にとってはまさしく世界そのもので、命をかけるだけの理由が確かにそこにあった。この物語は、アンと徳川、ふたりの心の中だけに確かに存在した悲劇だ。
特別であることを信じ、特別であろうとした少女たちの物語。
だからこそこの物語は、“記録”ではなく”悲劇の記憶”なのだ。