くちびるに歌を (小学館文庫)

小さな一歩、踏む出す勇気 / くちびるに歌を 中田永一

「みんな、わらって」
すこしはなれたところから、横峰カオルのささやくような声が聞こえてきた。ちらりとそちらを見ると、目があって、口元に笑みがひろがる。
私の声が聞こえて、その言葉を遠くの部員につたえてくれたのだ。

「わらって」

無事今年も仕事納めが終わり、年明けまでのわずかな休日の過ごし方を考えながらこの文章を書いている。
恐らくは積み本の消化をしていくことになるのだろうが、そうなってくると今度は、年越しの瞬間に何を読むかを考えなければならない。

一年のスタートを切る本が良いものだったか悪いものだったかで、ある意味ではその一年が決まってしまうような気すらするのだ。
一年の計は元旦にありとも言うように、わたしたち本読みにとっては、これは重要な問題であろう。

そんなことを思いながら、本棚の整理をしてみる。
去年の終わり、そして今年の初めに読んでいた本がなんだったかを確認するためだ(わたしは読み終わった本の奥付に、読了日を記すようにしている)。

そんな風に記憶と記録を頼りにして探し出した本が、中田永一の『くちびるに歌を』であった。

中田永一とは言うまでもなく乙一のことである。
乙一はいくつか別名義を持っており中田永一はそのうちのひとつだ。その他にどうやらは白山朝子という名義もあるらしい。

乙一作品には二面性があるとよく言われる。残酷さや凄惨さを主軸にしたいわゆる黒乙一と呼ばれる作品群と、切なさや繊細さを主軸とした白乙一と呼ばれる作品群である。
もちろん明確に分けられているわけではないのだろうが、中田永一名義の作品には、その白乙一側のものが多いように感じる。

そして『くちびるに歌を』も、その例に漏れずまさしく”白乙一”的な作品だと言えるだろう。

今作は長崎県・五島列島の中学校を舞台に、そこに通う合唱部員たちの成長を描いた青春小説である。NHK合唱コンクール(Nコン)に出場することをメインテーマとして、その過程で巻き起こる様々な問題や、進路や恋愛、男女間の対立などの悩みを通じて揺れ動く思春期の少年少女たちの心に焦点を当てている。

今作の特徴として真っ先に挙げられるのは、男女二人の主人公が各章ごとに交互に語り部を務めていることだ。
それぞれの視点から一人称で語られるそれぞれの物語。それによって、男女それぞれの立場の違いや、考え方の違いを補完するような構成になっている。

また中田永一の文章は、すこし変わった漢字の開き方をしていることも大きな特徴のひとつだ。一般的には漢字で書いてしまいそうなところでも、あえて平仮名で書いている。

そしてそれが文章に独特のリズム感や柔らかな雰囲気を与えている要因となっている。
それらは舞台が孤島の田舎町ということもあり、そこに流れる緩やかな時間や人々の繋がりをより印象的に演出しているかのようだ。

文章は非常に読みやすく、リズムよく頭に情景が浮かんでくる。中学生を主人公にしていることもあってか、あえて難しい単語や漢字を使わないようにと気を使っているのかもしれない。
もしかしたらこの物語は、今まさに人生に悩んでいる若者たちに向けて書かれたものなのかもしれないと、そんなことを思わされる。

では今作は低年齢層向けの児童書かというと、もちろんそんなことは無く、大人が読んでも充分に楽しめるものとなっている。
各所に差し挟まれるエピソードやドラマチックな展開の数々。アンジェラ・アキの『手紙』をモチーフにして、実際に未来の自分へ宛てた手紙によって徐々に明かされていくそれぞれの秘密や悩みというギミック。伏線の張り方。
そうして気が付くと物語に引き込まれてしまえるのは、ひとえにベテラン作家の筆力の高さのなせるわざであろう。

この物語は少年少女が葛藤や対立を乗り越え、あるいは受け入れて、少しだけ成長するお話だ。
しかしそれが単なる希望の物語だけにはならず、その中に切なさをはらんでいるようにも感じられるのは、きっと綺麗ごとや御都合主義で問題を解決しようとしていないからなのだろう。

そしてだからこそ、この物語はそれを読んだひとにも、小さな勇気を与えてくれる。

現実は非情である。中学生の力で変えられる世界は、とてもすくない。きっとできるのは、そんな現実との向き合い方を学び、そうして望む方向へと少しずつ進んでいくことだけなのだ。
ままならない現実の中を懸命に生きる少年少女を誤魔化し無く綴った今作は、新たな一歩を踏み出そうとする希望を与えてくれる感動作である。

かつてわたしの読書習慣の始まりは、たまたま立ち寄った書店で見つけた乙一の小説だった。
(別名義ではあるが)その乙一の小説が今年の読書の始まりだったことは、わたしにとってこの上ない幸運であり、また数奇な運命を感じさせるものでもあった。

ちなみに今作、『くちびるに歌を』は、『いでじゅう!』や『今日のあすかショー』のモリタイシ作画でコミカライズ化もされている。小説を読んでいる暇が無いという方はそちらをお手にとってみるのも良いだろう。

また、来年2月には映画化されることも決定している。
もしお暇があれば、是非劇場まで足を運んでみては如何だろうか。もちろんわたしは、観に行くつもりである。

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最後に

今年はわたしにとって、たくさんの良い本たちと出会えた素晴らしい年であった。みなさんは如何だっただろうか。

来年も良本たちと出会えることを願い、そしてこれを読んでくださったみなさんにとっても、来年が実り多い年となることを祈って、年末の挨拶と代えさせていただこうと思う。

今年も一年ありがとうございました。良いお年をお迎えください。
どうぞ来年も、よろしくお願い致します。

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人が物語を読むのは、人生が一度しかないことへの反逆だ。 そんな言葉を言い訳にして、積み本が増えていく毎日。 Twitter:pooohlzwg