この部屋で君と (新潮文庫)

いつでもそこに君がいて /この部屋で君と アンソロジー

つきのさばくを はるばると
たびのらくだが ゆきました
きんとぎんとの くらおいて
ふたつならんで ゆきました

人間が作る共同体の最大単位が国家ならば、その最小単位は番いであり、言い方を変えればそれは家族である。
蟻が群れを作ることのより高度なものが人々の共同体だとするならば、ひとが家族を作ることはある意味で種としての本能だと言えるだろう。

うろ覚えの知識で恐縮だが、ドイツだったかフランスだったか、どこかの国の言葉で不安を表す単語は、否定の接頭辞に家という単語をつけた形をしているそうだ。あえて英語で書くならば”un-home”といったように。
つまりひとにとって、家に居ないということは不安な状態なのだろう。

昔から言われていることだが日本人にとって最も心が落ち着く場所が三つあるという。
ひとつはお風呂、ひとつはトイレ、最後のひとつは馬の上(昔の話である)らしい。
それらは全て、基本的には一人きりになれる空間だ。恐らく一番心安らぐ空間というのは、他人に煩わされることもなく自由で、全てを自分自身に委ねられるような、そんな瞬間を言うのだろう。

だがそれでもひとは他人と繋がろうとする。そうして誰かと共に生きようとする。

そんな、共同生活k、ふたり暮らしをテーマにした短編集が、この部屋で君とだ。
本作は今をときめく気鋭の作家を集めたアンソロジーとなっている。参加作家を挙げてみれば、『桐島、部活やめるってよ』の朝井リョウ、『陽だまりの彼女』が映画かもされた越谷オサム、『ビブリア古書堂の事件手帖』が大ヒットを記録した三上延など。

誰かと同じ部屋で暮らすとなると、真っ先に思い浮かぶのが恋人同士の同棲生活だろう。だが、この本に収められているのはもちろんそれだけではない。いや、むしろ恋人同士の話の方が少ないくらいだ。

ルームシェアをする姉妹の話や、突如神様に取り憑かれてしまい(!?)一緒に暮らすことになってしまったひとの話。出張先のホテルで同僚と過ごす数日間だったり、保護者不在の児童を数日間預かる話もあった。

こうして書き上げてみれば、共に暮らすと一言で言っても、その形は様々だということに気づく。人々の出会いにはそれぞれに物語があり、同じものなどひとつも無いのだ。

他人と暮らすということは一筋縄にはいかない。どんなに親しい相手でも気を使うだろうし、自由を制限されることにもなる。
それでもわたしたちは、誰かと共に生きようとする。それは恐らく、そんな苦労を補って余りあるほどのメリットがあるからなのだろう。
それはもちろん、経済的理由であったり、ただの人情で仕方なくなのかもしれない。
けれど決してそれだけではないと、わたしはそんな風に思う。

共に暮らすとは、家族になるということだ。
今作には、食事をするシーンが頻出してくる。わたしたちの身体は、もちろん食べたものでできている。同じものを食べて生活するということは、ある意味で同一の存在になることだと、それが家族になるということなのだと、漫画、『高杉さん家のおべんとう』でも言っていた。

誰かと一緒に暮らしているひとも、これから誰かと暮らす予定のひとも、もちろん一人暮らしの自由を満喫しているひとでも、一度この本を読んでみて欲しい。
そこには少しの煩わしさと面倒くささ、そしてそれにも勝る、心の温かさが満ちている。

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人が物語を読むのは、人生が一度しかないことへの反逆だ。 そんな言葉を言い訳にして、積み本が増えていく毎日。 Twitter:pooohlzwg