彼女とカメラと彼女の季節(5)(モーニングKC)

その先にある、彼女たちの季節/彼女とカメラと彼女の季節5巻 月子

ユキの涙が、落ちて、川に溶けてく……
「きれい」と思ったら
かける言葉もなく、夢中でシャッターを切った。

月子の『彼女とカメラと彼女の季節』(以下カノカメ)の最終巻が発売された。
前々回に引き続きカメラをテーマにした作品を取り上げることになってしまったが、鈍行列車で8時間かけてサイン会にまで行ったほどこの漫画を好いている人間として、これについて書かないわけにはいかない。

先日わたしの誕生日の日、とある知り合いから頂いたプレゼントの中に、ヴェネチアの仮面があった。
その仮面は、ヴェネチアカーニヴァルで使うようなもので、妖しげな雰囲気がして、とても気に入っている(流石に実際に使ったりはしていないが)。

ヴェネチアカーニヴァルといえば、ひとびとは仮面をつけて仮装し騒ぎ遊ぶのだが、それには身分や階級を隠し、皆が平等にお祭りを楽しめるように、という意図があるらしい。

ひとが社会生活を送る上で、隠している自分自身があるという話は以前の記事でも書いた。
そのような外的側面を心理学ではペルソナと呼ぶ。ペルソナの元の意味とはまさしく、演劇で役者が用いた仮面のことである。

哲学者の西田幾多郎は、反省や思惟などといった意識が存在する以前の直接的な経験のことを純粋経験と呼んだ。純粋経験とは、美しいものを美しいと思う”その寸前”の気持ち。感動に心が揺れる、その直前の意識のことである。

そんな純粋経験が訪れる瞬間、ひとが心に付けたペルソナは自然と外される。

カノカメは、そんな飾らない人間そのものを描写しようとした漫画なのだと思う。そして、わたしがカノカメを好きな理由も、まさしくそこにある。

この漫画において頻出する印象的なシーンのひとつに、ヒロインであるカメラ少女ユキが、ひとに会うたびに、出会い頭にシャッターを切るという場面がある。
彼女が撮ろうとしているものは、相手の自然な表情の記録。心が身構える以前の、ありのままの姿なのだろう。

生身の自分を他人にみせるのは、恐ろしい。
相手がかけがえの無いものであるほどに、それをさらけ出すには勇気が必要となる。

イメージを壊してしまうのではないか、本当の自分を知れば相手が離れていってしまうのではないか。そう思えば思うほど、ペルソナは分厚く強固になっていく。

だが外面を取り繕い、うわべだけの付き合いをしていたのでは、真の意味で相手を理解し、また自分を理解されることは不可能だ。

本作の登場人物たちも、隠された自分自身を持っていた。

天真爛漫でなんの屈託もないように振舞っていた少年が、実は心の中にドロドロとした暗い気持ちを抱えていたり、ミステリアスでクールな女の子が実はどうしようもなく乙女な一面を持っていたりするのだ。

彼女たちは作中で、少しずつ本当の自分を相手にさらけ出していく。カノカメはそんな彼女たちが、手探りで進んでいく物語だ。

心の交流とは、心の奥の最も繊細な部分を、生身の自分をぶつけ合う行為だ。弱い部分も、汚い部分も隠しておくことは出来ない。
時には衝突し、傷つけ傷つけられることもあるだろう。裏切られ失望し、逃げだしてしまいたくなるときもあるだろう。

けれどそうして全てを明かし、ぶつかりあい、それらを乗り越えた先にこそ、新しい関係が生まれるのだろう。

数々の困難や葛藤を乗り越え、彼女の季節は終わる。
全てを乗り越えた先に、新たに生まれた彼女たちの季節。それがどうなるのかは、是非あなた自身の目で確かめて欲しい。

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人が物語を読むのは、人生が一度しかないことへの反逆だ。 そんな言葉を言い訳にして、積み本が増えていく毎日。 Twitter:pooohlzwg