瞳には写らない。/相沢沙呼 ココロ・ファインダ

ココロ・ファインダ (光文社文庫)

カメラを向けて、シャッターを切っても、そこにわたしは写らない。
ねぇ。誰か教えてよ。
わたしって、なに?

ここのところ急激に気温が下がってきている。気が付けば夏が終わろうとしているのだ。
かつて子供の頃、夏の風物詩と言えばテレビの心霊番組であったが、最近ではその手の番組もあまり観る機会がなくなってしまった。

「幽霊は存在するか?」
そんなことは世間話のタネにしかならないような使い古された質問だ。

それなのにこの手の疑問がいつまでも残り続けるのは、幽霊というものが目に見えず、また触れることもできないからだろう。
ひとは自然と、確かめられないものの存在を否定したがる。
だが、目に見えないということは、それが存在しないことの証明には決してなりえない。

確かめようのないものの存在は、それを否定するか、あるいは信じるしかないのだ。

ひとの心も同様に、瞳には決して写らない。

哲学的ゾンビという言葉がある。哲学的ゾンビとは、『外見的、行動的には普通の人間と変わらないが、内面的にはなんの主観的体験も持たない存在』のことである。
例えばわたしが漫画を読んで、それについて感動したとする。別の誰かも同じように、それを読み、感動したと語る。だが哲学的ゾンビの心では、実際にはわたしが感じているような『この感動』は生じていない。

ただ機械的な反応や反射の結果外見上は同じように振舞うだけで、ゾンビは意識というものを持っていないのだ。
仮にそんな哲学的ゾンビがいるとして、我々にはそれを否定することも、確かめることも出来ないのだという。

もちろん本気で、他人には心が無いのだと、そんな風に考えているひとは少ないはずだ。実際のところ、わたしたちは無条件に、他人の心というものを受け入れてしまっている。

だがそもそも、こんな思考実験が成立してしまうこと自体、わたしたちには他人の心を確かめることができないという証明なのだろう。

相沢沙呼のココロ・ファインダは、写真部に所属する四人の女子高生の葛藤や成長をそれぞれの視点から描いた、青春ミステリである。
彼女たちは友情に、恋に、進路に、様々な問題に悩みを抱えている。親友と仲良く話をしながらも心の中では相手に嫉妬していたり、傍目には完璧に思えるような美少女が実は大きなコンプレックスを抱えていたりする。
だがそれらは巧妙に隠されていて、他人からは容易には分からない。
そんな内面を、各話ごとに語り部を変えることによって、描写しているのが今作の特徴でもある。

思春期の心は不安定だ。自分でもそれがなんなのか分からないような、衝動にも似た感情に支配される瞬間が存在する。自分自身の心すら満足に捉えられないのに、他人の心を捉えることとなれば、その困難さは想像に難くない。

写真は(実際には違うのだが)一瞬を切り取る道具だと言われる。
相手のファインダーを通した、他人から見た自分というものがそこには写る。

それはあたかも鏡に映る自分が実際の自分とは微妙に異なっているように、自分の思う自分自身と、他人から見た自分自身とはなかなか一致しない。

相手から自分はどう見えているのか、それを知ることは自己の内面に悩む少女達に、ある意味で救いを与えてくれるものなのだろう。

だからこそ彼女たちは写真を撮り続ける。
表情や、態度。そんな目に見えるものを通して、他人の心を推し量り、切り取ろうとする。
写真には写らない他人の心の中を理解しようとし、少しでも近づこうと必死に手を伸ばすのだ。

ひとの心は瞳には写らない。だからこそ、文字で、写真で、わたしたちはそれを描写しようとする。
青春に揺れる、眩く輝くような少女たちの心を瑞々しく描いた本作。
純粋な心の動きが見せる美しさが、そこにはある。

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人が物語を読むのは、人生が一度しかないことへの反逆だ。 そんな言葉を言い訳にして、積み本が増えていく毎日。 Twitter:pooohlzwg